深沙大将の源流と日本での受容ー平安後期までの動向ー
松岡 久美子
仏教芸術 3 79 - 96 2019年09月
[査読有り] 深沙大将の源流は、中国の国土に住して疫神的性格を備え、「浮丘」と並び称された鬼神「深沙」に求められる。この深沙に、童子の姿に変じて寺中の持経者に供侍する守護神としての霊験が語られ、この話中で持経者の前に正体を露見した際の姿が、のちの深沙大将の形像の基本となった。
また九世紀前半に江陵に祀られた深沙大将像に関連して、深沙大将を念じて水難を免れたという霊験譚が語られ、これを契機に俗人をも対象とする水上交通の守護神としての性格が加えられて、長江流域に信仰が広まった。蜀から江南にはもとより玄奘伝説が語られており、深沙大将の、持経者に供侍し旅路を守護する性格が、玄奘が西域で出会った「一大神」と結びつけられた。
こうして深沙大将は深沙大将は蜀地から長江中下流域に一躍信仰を広げたが、その時期は空海が帰朝した八〇六年以降、常暁が入唐する八三八年までの間と推測される。日本には常暁や円珍のほかにも複数の経路で深沙大将が請来され、そのうちの文字情報は実質的には深沙大将に関わる中国産の伝説群であった。
日本でも唐から請来された情報に基づく独尊の深沙大将像が造られたが、この状況が変化するのが平安後期で、現存作例中では、戟を執り、降三世明王とともに薬師如来の脇侍となる福井・明通寺像がその劈頭にあたる。この変化の背景には、日本仏教の正統性を模索する中で見いだされた、天竺の仏教と日本の仏教を結びつけ日本仏教の正統性を保障する存在としての玄奘の再評価が大きく関わるとみられ、ここに深沙大将の日本独自の展開の端緒が開かれた。